【岩槻城】

(室町時代)
従来は『鎌倉大草紙』により、古河城にいた古河公方・足利成氏に対抗するため、1457年(長禄元年)、扇谷上杉
持朝とその家臣太田道真・太田道灌父子により、江戸城・河越城とともに築かれたとされていた。
しかし、1478年(文明10年)に古河公方方の忍城主成田顕泰の父成田自耕斎正等が築城したと記述された史料が
発見され、近年は成田氏築城説が有力視され始めている。
これに対して最近、成田氏築城説の根拠となった史料について、新たな解釈が示されている。
すなわち、本史料で築城者「正等」の子としている「顕泰」は成田顕泰ではなく、長尾忠景の三男であり太田道真の
養子になった人物とし、「正等」は道真の法諱(仏法社会の本名)とみなす。
2014
年の時点では太田氏築城説と成田氏築城説が並立している状態である。
その後、永正7年(1509年)には、古河公方奉公衆である渋江氏が岩槻城主となったとみられている。

(戦国時代)
扇谷上杉氏と山内上杉氏の対立から関東も戦乱期に突入する。
1522
年(大永2年)、太田資頼が岩槻城を奪取し、以後、岩槻太田氏の居城となる。伊豆、相模を手中に収めていた
北条氏が武蔵に侵攻して岩槻城攻略に乗り出すと、1546年(天文15年)の河越夜戦で北条氏の武蔵支配が決定的に
なる中、岩槻城はそれに抵抗する太田資正(三楽斎)の居城として機能した。
1564年(永禄7年)、資正の留守中に嫡子・太田氏資が北条氏康に内応し資正の追放を断行、岩槻城は後北条氏方と
なった。1567年(永禄10年)、氏資が上総国で戦死すると、氏資には男子がいなかったため、北条氏はこれを契機に
岩槻城を直轄にする。
1580
年(天正8年)には北条氏直の弟の源五郎が、その早世後の1585年(天正13年)にはその弟氏房が城主になった
(形の上では太田氏の名跡を継いでいる)。
1590
年(天正18年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際には、氏房が小田原城に詰めたため、氏房付の宿老である伊達
房実の指揮の下、2000の兵が岩槻城に籠城するが、浅野長吉等に率る約2万の兵に攻められ、1000余の犠牲を出して
数日後に降伏落城した。

(江戸時代)
北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入ると、徳川家の譜代家臣の高力清長が2万石で岩槻城に入った。
以後、青山氏・阿部氏・板倉氏・戸田氏・藤井松平氏・小笠原氏・永井氏ら譜代大名の居城となった。
江戸中期に徳川家重の側用人大岡忠光(大岡忠相の遠縁)が入り、藩主が固定。廃藩置県まで大岡氏の居城となった。
天守は無かったが天守代用の櫓として本丸に二層二階の瓦櫓があり、他に
柿葺二層二階の二重櫓と同じく柿葺の一層
一階の櫛形櫓が本丸に存在した。


(明治時代以降)
城址公園に黒門と裏門が移築され残っている。他に門2棟が移築され残っている。城址公園は曲輪の一部で、本丸が
あった場所は住宅地となっている。