【岩村城】

【戦国時代以前】
鎌倉幕府の征夷大将軍源頼朝の重臣加藤景廉の長男遠山景朝が築き、その子孫の岩村遠山氏が戦国時代に至るまで
この地を治めた。

景朝が遠山荘に赴任した鎌倉時代中期頃には平坦部に築かれた砦あるいは城館的なものであり、織田氏・徳川氏・
武田氏の抗争が激しくなった戦国時代末期の16世紀中に遠山氏・武田氏の手で本格的な城山が構築されていったと
みられる。遠山氏の菩提寺であった大圓寺跡や古市場という遺存地名からも、当初は富田・大円寺に城館や城下町が
あったと考えられている。

太平記の1337年(南朝:延元2年、北朝:建武4年)金ヶ崎城の戦いにおいて「美濃霧城遠山三郎」なる名が出る
事から、鎌倉時代の終わりには諸国に認知される遠山氏の城が存在している事が分かる。
なお同記述によれば遠山三郎が城を捨てて逃げ行方知れずとあり、景廉・景朝の嫡流は一度ここで断絶している。

【戦国時代・安土桃山時代】
1570年(元亀元年)
遠山氏最後の城主は景任で、甲斐国の武田氏の家臣で、信濃伊那郡の大島城を拠点に伊那郡代であった秋山信友に
よって攻められたが織田信長の武将、明智光秀の援護もあり、守り抜いた。


1571年(元亀2年)
景任が病没すると信長は5男で当時6歳(2歳、3歳説もある)の坊丸(織田勝長)を遠山氏の養子とした。
景任夫人は信長の叔母にあたる女性(通称はおつやの方など)で幼少の養子に代わって女城主として差配を振るった。

1572年(元亀3年)
10月、信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃するために出陣し、同時に再び虎繁に岩村城の攻略を命じた。
しかし、城はこの際も容易に落ちなかったが、虎繁は夫人を説得し妻に迎えることを条件に城は開城した。


1575年(天正3年)
5月21日の長篠の戦いの後、武田勢が弱体化した期に乗じ信長は岩村城奪還を行った。
信長は嫡男・信忠を総大将に攻城戦を行い5ヶ月にわたる戦闘の後、武田勝頼の後詰が間に合わず城は陥落した。
開城の際、虎繁の助命が約されていたが織田方はこれを翻し、虎繁夫妻ら5名が長良川河川敷で逆さ磔となり処刑
された。織田方の城となった後、河尻秀隆が城主となり城の改造を行い現在の城郭に近いものとなった。


1582年(天正10年)
河尻秀隆が甲斐国に移封となると、団忠正の居城となるが3ヶ月と経たぬ内に本能寺の変で忠正は戦死。
岩村城は信濃国から戻った森長可が接収し、長可死後は森忠政が引き継いだ。この時の城代となった
森氏家老、各務元正は、この後約17年を費やし近代城郭へ変貌させ、現在の城郭が完成した。


1584年(天正12年)
小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康の元に逃れていた明知遠山氏の遠山利景が攻め寄せるも、元正により退け
られる。


1599年(慶長4年)
豊臣秀吉の死後、森忠政が信濃国松代に移封となると田丸直昌が入城。


1600年(慶長5年)
関ヶ原の戦いで大阪城番であった直昌は西軍となり、城は本領復帰を狙う遠山利景に再度攻められる。
戦後、田丸氏が改易されると、松平家乗が入城した。


1601年(慶長6年) 家乗は山上にあった城主居館を城の北西山麓に移し城下町を整備した。

【江戸時代】
1645年(正保2年) 大給松平氏の上野国館林城転封に伴い、三河国伊保藩より丹羽氏信が入城。

1702年(元禄15年) お家騒動を起こし越後国高柳藩に転封となった。同年に信濃小諸城より松平乗紀が入城した。
乗紀は全国で3番目となる藩校・文武所(後の知新館)を設けた。以後、明治維新まで再び大給松平氏の居城となった。

【近現代】
廃城令により、1873年(明治6年)城は解体され石垣のみとなった。藩主邸は残されたが、1881年(明治14年)に
全焼した。跡地には1972年(昭和47年)岩村町歴史資料館が開館した。


2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。