【岩国城】

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は領地を大幅に削減され、広島城から萩城に移封となった。
同時に一族であり毛利家存続に注力(結果的に毛利氏は領土を大幅に削減された)した吉川広家も同時に米子城
から岩国3万石に封じられた。
慶長5年10月には家臣団が、慶長6年(1601年)には広家がこの地に赴任した。広家赴任と同時に岩国城の築城が
開始された。麓に平時の居館となる「土居」と、戦時の城「横山城」が横山山上に築かれた。築城には8年の歳月が
費やされ、まず翌慶長7年(1602年)に土居が完成した。土居完成とほぼ同時期に横山城の築城が開始され、慶長
13年(1608年)に竣工した。本丸には4重6階の唐造りの天守が建造された。
しかし、完成からわずか7年後の元和元年(1615年)に江戸幕府の「一国一城令」により横山城が破却され廃城と
なった。これは、周防にはこの岩国城のみが存在していたが、長府藩の毛利秀元が居城の櫛崎城を破却した事に
合わせざるを得なかったことによる。その後、麓の土居は岩国藩の陣屋として明治維新まで存続した。
岩国藩は本藩である長州藩より長期にわたって独立を認められず、支藩・陪臣として扱われた。
これは、関ヶ原の合戦時に吉川家のとった行動が、毛利家中で評価されなかった事と深く関わりがある。
当藩は明治維新の年、慶応4年(1868年)に漸く独立の「藩」として認められ諸侯に列したが、明治4年(1871年)
には廃藩置県によって廃藩とされたため、正式に独立した藩の藩庁として機能した時期はわずかだった。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。