【岩殿山城】

岩殿山は初め、9世紀末頃天台宗の円通寺として開創されたと伝えられており、13世紀に入ると天台系聖護院末の
修験道の場として栄えており、16世紀になって大名の領国支配制が成立すると武田氏・小山田氏両氏の支配を
受けるようになった。
築城は戦国時代の1530年代に武田氏の親族衆の扱いを受けた小山田氏によると考えられている。大月は武蔵国など
関東地方へ至る街道が交差する地点に位置し、甲府盆地と異なる地域的まとまりをもっていた。
小山田氏は初め武田氏に対抗していたが、永正6年(1509年)武田氏の傘下に入った。その後は軍事的に武田氏が
相模国の後北条氏や駿河国の今川氏、武蔵の上杉氏らと争った際の衝突地点となり、国境警備の役割を果たした。
東西に長い大きな岩山をそのまま城にしており全方面が急峻で、南面は西から東までほとんどが絶壁を連ね、北面
も急傾斜である。
東西から接近できるが、それも厳しい隘路を通らなければならない。各種の防御施設が配されたが、天然の地形の
せいで郭も通路も狭く、大きな施設の余地はなかった。
周囲には集落や武家館が点在していたと考えられている。
天正10年(1582年)に織田軍が甲斐に侵攻したときに小山田信茂は織田方へ寝返り、岩殿山城へ落ち延びてく
る武田勝頼を郡内に入れず、進退に困った勝頼は天目山で自害した。武田家を滅亡させる事に深く関わった小山田
信茂だがこの天目山の戦いののち、織田信長により処刑された。
江戸に武家政権を成立させた徳川家康は、江戸幕府の緊急事態の際に甲府への退去を想定しており、江戸時代にも
岩殿山城は要塞としての機能を保った。