【岩櫃城】
岩櫃山の北東に伸びる尾根に位置し、吾妻川の西岸にあたる。また、西は岩櫃山、南は吾妻川へ下る急斜面、北は
岩山で天然の要害となっている。尾根の西から本丸・二ノ丸・中城などが続き、北東に出丸の「天狗丸」がある。
その更に北東には支城・柳沢城(観音山城)が位置している。 北方の盆地には、東の吾妻街道から渓谷沿いの
隘路でのみ繋がる平沢地区があり、岩櫃城は天狗丸・柳沢城とともにこの盆地を守る位置関係を構成している。
平沢地区には根小屋があったとみられている。
築城年および築城主は不詳。この地を鎌倉時代に治めた吾妻太郎助亮によって築城されたと伝わるが、伝説の域を
出ない。後に助亮系の吾妻氏(前期吾妻氏)は姿を消し、下川辺氏末裔とされる吾妻氏(後期吾妻氏)がこの地を
支配したが、南北朝時代に南朝方の攻撃で当主行盛が戦死、その子・千王丸は秋間斎藤氏の斎藤梢基に庇護され、
山内上杉氏の偏諱を受け斎藤憲行と名乗った。
この憲行に始まる秋間斎藤氏6代の時代に、岩櫃城は築かれたとみられる。
また『加沢記』では、応永12年(1405年)に越前国大野郡にあった斎藤基国の子・斎藤憲行がこの地に入部して
築城したとされる。
岩櫃城主となった斎藤氏時代の詳細は、斎藤氏系譜と同様に複数伝わっておりはっきりしない。地元の旧記では
吾妻行盛−斎藤憲行−行禅−行弘−行基−行連−憲広(基国)と系譜を伝え、行禅のときに重臣秋間氏の反対を
押し切って柳沢城を家臣で娘婿の柳沢安吉に与えたが、行弘のときに柳沢安吉は反乱を起こし鎮圧されたという。
一方『加沢記』では、憲行の長男・憲実が岩櫃を継ぎ、他の兄弟は分家したのだが、五男・憲基の子孫たる大野氏
の勢力が拡大、家臣の秋間氏を滅ぼして宗家・憲実を支配下に置いたという。
その後、大野氏は大野憲直のときに、四男・山田基政の嫡孫で岩下城主・斎藤憲次の反乱によって滅び、岩櫃城は
憲次が支配し、その子・憲広に受け継がれたという。
斎藤憲広は上杉氏に属して勢力を拡大したが、郡内の豪族羽尾氏と鎌原氏(三原庄)の領地争いに介入(羽尾氏に
味方)したことで、両氏の仲介に入っていた信濃国小県郡の真田氏、および真田家の主家である甲斐の武田氏に
よる介入を招くことになる(羽尾氏・鎌原氏・真田氏は共に海野氏系で近い関係にある)。
永禄3年(1561年)に鎌原幸重が武田家の信濃先方衆である真田幸隆を介して武田家に臣従して、武田氏の後ろ盾
を得る。それに対して、永禄五年(1562年)に斎藤憲広は羽尾幸世など羽尾氏と共に鎌原城を攻略し、鎌原氏を
信濃に追い払う事に成功する。しかし、程なく鎌原城を奪回されるなど真田勢の攻勢を受け、永禄6年(1563年)
には家臣の内応もあって落城、憲行は越後に逃走した。斎藤氏は憲行の末子・城虎丸が近隣の嶽山城に篭って
いたが、永禄8年(1565年)に落城、斎藤氏の勢力は駆逐された。
斎藤氏滅亡によって武田氏の領国支配下に入り、武田家郡代として真田氏が岩櫃城主となり、吾妻郡支配の中心的
役割を担うようになっていった。 そして沼田城が真田氏に攻略されると、その支城として扱われた。
武田勝頼が織田信長によって新府城を追われた(甲州征伐)ときに真田昌幸は勝頼に逃れてくるよう奨めたが
叶わず武田氏は滅亡する。その後も真田氏は生き延び豊臣秀吉に属し大名として存続した。江戸時代、徳川氏の
時代になると、真田氏もその傘下となる。徳川幕府の一国一城令により、慶長19年(1614年)に廃棄された。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された。