【一乗谷城】

朝倉家伝記」や朝倉家記などの新資料によると、朝倉氏は南北朝時代には、一乗谷を本拠にしていたようである。
文明年間には重臣が一乗谷に集住するようになり、また、応仁の乱により荒廃した京から、多くの公家や僧侶、文人、
学者たちが避難してきた為、一乗谷は飛躍的に発展し、華やかな京文化が開花した。
戦国4代・朝倉孝景 (10代当主)の頃から全盛期を迎え、最盛期には人口1万人を超え、越前の中心地として栄えて
いた。
1567年11月21日には戦国5代・朝倉義景が足利義昭(1568年4月一乗谷で義昭に改名)を安養寺に迎える。
義景は義秋を歓待するが、1568年7月24日、義昭は上洛を果たすため織田信長を頼って美濃国に出国する。
1573年8月16日、一乗谷城の戦いに大敗した義景は一乗谷を放棄し大野へ逃れる。翌日、信長の軍勢によって火を
放たれ一乗谷は灰燼に帰した。
その後、信長より守護代職を与えられた朝倉氏旧臣の前波吉継が一乗谷に館を構え、越前を統治していた。
しかし、同じ旧臣である富田長繁ら国人は長俊に反感を抱いており、民衆に一揆を起こさせるべく画策した。
1575年1月18日、吉田郡志比庄で一揆が蜂起、翌日には長繁を先頭に坂井郡、吉田郡、足羽郡の一揆勢3万3千人
が一乗谷に攻め入り、長俊は一族もろとも討ち取られた。
信長が一揆を弾圧した後、越前八郡を与えられた柴田勝家は本拠を水運・陸運に便利な北ノ庄に構えたため、辺境で
ある一乗谷は田畑の下に埋もれていった。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。