【姫路城】

今や日本に12箇所しか現存していない、江戸時代以前に建造された天守を有する城郭の一つである。(現存天守)
国宝四城(姫路城・松本城・彦根城・犬山城)の一つでもあり、築城以来の姿をよく残している事もあって、時に
「天下の名城」あるいは「日本一の名城」と言われる。
築城以来廃城や戦火の危機を免れてきた事から天守をはじめ多くの建造物が現存し、うち大天守、小天守、渡櫓等
8棟が国宝、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に指定されている。
また1993年、国際連合教育科学文化機関の世界遺産(文化遺産)に登録されている。
姫路城の所在地「姫路市本町68番地」は、日本の番地では皇居の位置する「千代田区千代田1番地」に次いで広い
面積を有する。近代には大日本帝国陸軍・歩兵第十連隊が駐屯していた。
白壁の美しい城であり、時代劇を始めとして映画などのロケが行われることも多い。しばしば江戸城など他の城の
代わりとして撮影されている。
築城は南北朝時代、赤松則村(円心)が姫路山上に築いた称名寺をもとに、正平元年(1346年)の赤松貞範による
築城説が有力である。室町時代の嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で赤松氏が没落すると、一時山名氏が入るが、
応仁の乱の混乱の中赤松氏に奪還された。
16世紀前半、御着城を中心とした赤松支族の小寺氏が播州平野に台頭、その被官であった黒田重隆が城代として
姫路城に入った。重隆によって居館程度の規模であった姫路城の修築がある程度行われ、姫山の地形を生かした中世
城郭となったと考えられている(規模は現在残るものよりもはるかに小さい)。
天正元年まで黒田氏が代々城代を勤め、重隆の子黒田職隆、孫の黒田孝高(官兵衛、如水)に伝えられた。
ところが、天正4年(1576年)に織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力
と中国地方の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。
ただし小寺氏の被官でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕えることとなった。
天正8年(1580年)、黒田孝高は秀吉に、姫路城を本拠地とするよう薦め居城を献上した。秀吉は、同年4月から
翌年3月にかけて行った大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった
石垣で城郭を囲い、さらに天守(三層と伝えられる)を建築した。
あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。この際には姫路の北
を走っていた山陽道を曲げ、姫路の城下町を通るようにも改めている。
同年10月28日、龍野町に、諸公事役免除の制札を与える。この最初の条文において、『市日之事、如先規罷立事』と
あることから、4月における英賀落城の際に、姫路山下に招き入れ市場を建てさせた英賀の百姓や町人達が龍野町に
移住したとする説が存在することを、平凡社『日本歴史地名大系』は記している。
天正10年(1582年)6月、秀吉は主君信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人への地位を
駆け上っていく。このため翌天正11年(1583年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟の
羽柴秀長(後の豊臣秀長)が入ったが天正13年(1585年)には大和・郡山城へと転封、替わって親族の木下家定が
入った。
慶長5年(1601年)、家定は備中に2万5千石で転封、代わって池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功で52万石で入城した。
輝政によって8年掛かりに及ぶ大改修が行われ、広大な城郭が築かれる事となった。
元和3年(1617年)、池田氏は跡を継いだ池田光政が幼少であり、重要地を任せるには不安である事を理由に因幡・
鳥取城へ転封させられ、伊勢・桑名城から本多忠政が15万石で入城した。
元和4年(1618年)には千姫が本多忠刻に嫁いだのを機に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。
要衝姫路の藩主は親藩および譜代大名が務めたが、本多氏の後は奥平氏、越前松平家、榊原氏、再度越前松平家、再度
本多家、再度榊原家、再々度越前松平家とめまぐるしく入れ替わる。
寛延2年(1749年)上野・前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。
しかし、豪壮な姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職も相まって藩の経済を
圧迫していた。
姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行われてきたが、当時の技術では天守の重量に礎石が耐えられず沈み込んでいく
のを食い止める事は難しかった。
加えて柱や梁などの変形も激しく、江戸時代後期には俗謡に『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』などと
歌われるありさまであった。
幕末期、鳥羽・伏見の戦いにあって姫路城主・酒井忠惇は老中として幕府方に属し将軍・徳川慶喜と共にあった為、
姫路藩も朝敵とされ姫路城は岡山藩と龍野藩の兵1,500人に包囲された。
この時、輝政の子孫・池田茂政の率いる岡山藩の部隊が姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。
その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。
官軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津・兵庫津の勤王豪商・北風正造が15万両に及ぶ私財を官軍に献上し、
それを食い止めた。この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定、城明け渡しで官軍と和睦する。
こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避され、後年の世界遺産は焼失を逃れた。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。