【浜松城】
浜松城は、前身は曳馬城(引馬城)と呼ばれ、今川氏の家臣・飯尾氏が建てた。
今川氏の衰退後、城主・飯尾連竜が今川氏真に反旗を翻すと、駿府軍に攻囲され多大な損害を被るが、陥落こそ
免れた。この時、駿府軍からの和議勧告を受諾した連竜は、戦後に今川氏再属の為、駿府への大赦御礼に出向いた。
ところが、和議とは謀略で、連竜は誘殺されてしまった。
以後の曳馬城は、連竜の未亡人・'''お田鶴の方'''を中心とした飯尾氏の残党によって守られた。
だが、徳川家康によって、その弱体化を見透かされると、永禄11年(1568年)の年末には攻略されてしまう。
城主を謀殺されて今川氏を頼みとしなくなった城内は、すでに徳川派と武田派に分裂しており、その徳川氏への
内応者によって早期陥落したといわれる。
元亀元年(1570年)には、岡崎城から移った家康の本拠となった。
当初は、天竜川を渡った見付(磐田市)に新たに築城をするつもりであったが、籠城戦に持ち込まれた際、天竜川
の存在そのものが「背水の陣」となることから、曳馬城を西南方向に拡張した。又、引馬という名称は「馬を引く」、
つまり敗北につながり、縁起が悪いということで、付近がかつて「浜松荘」と呼ばれる荘園であったことから、城名、
地名ともども「浜松」と改めた。
元亀3年(1573年)、武田信玄がこの城を攻める素振りを見せながら、これを無視するような行軍をして家康を挑発。
挑発された家康は浜松城から打って出たが、当時、戦国時代最強ともいわれた武田軍の巧妙な反撃に遭って大敗北を
喫している(三方ヶ原の戦い)。
拡張・改修は天正10年(1582年)ごろに大体終わったが、その4年後の天正14年(1586年)、家康は浜松城から
駿府城に本拠を移した。家康の在城期間は、17年になる。
家康以後、天正18年(1590年)からは秀吉の家臣・堀尾吉晴と、その次男・堀尾忠氏が合わせて11年間在城した
が、関ヶ原の戦いの功績で出雲・松江に移封。以後は、一時徳川頼宣の領地だった時期を除いて譜代大名各家が次々
に入った。
近世には天守は存在しなかったようで絵図にも天守は記載がない。本丸にあった二重櫓が天守代用とされていた。
浜松城は明治維新後に廃城となり破壊された。城址は1950年に「浜松城公園」となり、1958年に鉄筋コンクリート
製の昭和の模擬天守閣が再建された。1959年には浜松市の史跡として指定された。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された。