【八王子城】

〜歴史・沿革〜
北条氏康の三男・北条氏照が1571年(元亀2年)頃より築城し、1587年(天正15年)頃に本拠とした。
氏照は当初、大石氏の滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐の武田信玄に攻められ、その際に滝山城
の防衛の限界を感じ、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築を行い、本拠を滝山城から移した。

〜八王子城合戦〜
小田原の役の一環として1590年(天正18年)6月23日、八王子城は天下統一を進める豊臣秀吉の軍勢に加わった
上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた。当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆け
つけており、八王子城内には、城代の横地吉信、家臣の狩野一庵、中山家範、近藤綱秀らわずかの将兵の他、領内
から動員した農民・婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠ったに過ぎなかった。
豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)・北側の絡め手(下恩方町)の2方向より
侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり1000人以上の死傷者を
出し、一時攻撃の足が止まった。その後、絡め手側別働隊の奇襲が成功し、その日のうちに城を落とした。
氏照正室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まった
と言い伝えられている。城代の横地監物は落城前に檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。
一部文献では豊臣側は殲滅作戦を行ったとの記載があるが、落城直前に降伏勧告を行ったとする古文書もあり、
下級家臣の中には落城後に降伏したものも多く、一部家臣の子孫などが城下に豊臣勢の家臣として召し抱えられて
いる。
八王子城攻防戦を含む、この小田原の役において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は当主・北条氏政とともに切腹
した。その後新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。