【八幡山城】

八幡山城は、滋賀県近江八幡市宮内町周辺(近江国蒲生郡)に存在した日本の城(山城)。
羽柴秀次の居城として知られる。別名近江八幡城とも呼ばれている。

1582年(天正10年)の本能寺の変と山崎の戦いのしばらく後に灰燼に帰した安土城は、清洲会議を経て三法師
(織田秀信)を城主に、織田信雄を後見人として再興することとなった。しかし翌1583年(天正11年)の
賤ヶ岳の戦い以降、政情が豊臣秀吉の天下へ移行する中で、1585年(天正13年)の紀州攻め、四国征伐で
副将格で戦陣に入り武勲を立てた豊臣秀次は8月23日の論功行賞で近江八幡43万石(豊臣秀次は20万石、宿老
に23万石)を与えられると安土城の隣地に八幡山城を築き、安土城の建物や城下町を移築することにした。

豊臣秀吉は八幡山城を安土城に替わる近江国の国城として、豊臣秀吉自身が普請の指揮をとり、山頂の城郭と
麓にある居館、そして安土城から移築した城下町の造営に力を注いだ。しかし、八幡山は安土山と違い険しい
山で、山の斜面を充分活用できず麓の居館が城の中心となった。(ここから多数の桐紋の金箔瓦が出土して
いる。金箔瓦には安土城、大坂城とよく似た形状の巴紋瓦もある。)

豊臣秀吉の八幡山築城の狙いは、豊臣秀次の宿老に田中吉政を配し、水口岡山城に中村一氏、長浜城に山内
一豊、佐和山城に堀尾吉晴、竹ヶ鼻城に一柳直末を配して、近江国を軍事的、経済的要衝として万全な体制
にすることにあった。

豊臣秀次は18歳で入城したが、1590年(天正18年)に尾張国清洲城へ移封。代わって京極高次が2万8千石
で入城したが、1595年(文禄4年)秀次事件で羽柴秀次は切腹、聚楽第と同時期、築城から10年で八幡山城
は廃城となり、京極高次は大津城へ移った。

本丸跡には秀次の母・豊臣秀吉の姉の日秀尼(智)が開基の村雲門跡瑞龍寺が1963年(昭和38年)に移転
されている。


2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された。