【鉢形城】
・1473年(文明5年)6月、山内上杉氏の家宰であり、同家の実権をふるった長尾景信が古河公方足利成氏を攻める
途中、戦闘は優位に進めたものの景信自身は五十子において陣没した。長尾家の家督を継いだのは景信の嫡男長尾
景春ではなく弟長尾忠景であり、山内上杉家の当主上杉顕定も景春を登用せず忠景を家宰とした。
長尾景春はこれに怒り、1476年(文明8年)、武蔵国鉢形の地に城を築城し、成氏側に立って顕定に復讐を繰り返す
こととなる。これが鉢形城の始まりである。
・1478年(文明10年) 扇谷上杉氏の家宰太田道灌が鉢形城を攻め、ようやく上杉顕定が入城した。
・1488年(長享2年) 扇谷の上杉定正が鉢形城の上杉顕定を攻めるため兵をおこし、城の近くで両軍が遭遇して
高見原の戦いが起こった。このとき、定正は戦闘には勝利したものの鉢形城は落とすことができず撤退した。
・1494年(明応3年) 上杉定正は再度鉢形城の顕定を攻めようと伊勢盛時(北条早雲)とともに高見原に打って出たが、
定正はこのとき荒川渡河中に落馬して死去した。以後、上杉顕定の存命中、鉢形城はその手にあり、顕定の後を継いだ
養子の上杉顕実(実父は古河公方足利成氏)も鉢形城を拠点とした。
・1512年(永正9年) 上杉顕実は同じ顕定の養子であった上杉憲房の軍に包囲されて鉢形城は落城、顕実は命を助け
られたものの山内上杉家当主の座を失った。
・1515年(永正12年) 憲房は山内上杉氏の家督を継ぎ、同年に顕実が死ぬと関東管領職をも継いだ。
しかし、家臣として仕えていた長尾景春が離反し、扇谷上杉家の上杉朝興、相模の後北条氏2代北条氏綱、甲斐の
武田信虎などとの長年にわたる抗争のなか、1525年(大永5年)3月に病没した。後を養子の上杉憲寛が継いだが、
のちに争いの末、実子の上杉憲政が継いだ。
・1546年(天文15年) 北条氏3代北条氏康が上杉朝定・上杉憲政の拠る川越城を攻略する河越夜戦が起き、それに
勝利して北条氏が武蔵国における覇権を確立した。
・1564年(永禄7年) 氏康四男北条氏邦が鉢形城へ入城した。以後、鉢形城は北条氏の北関東支配の拠点となった。
その後も戦略上の重要性から、各地の戦国大名の攻防の場となっており、1569年(永禄12年)には武田信玄に
よる攻撃を受け、1574年(天正2年)には、上杉謙信が城下に火を放っている。
・1590年(天正18年) 豊臣秀吉による小田原征伐がはじまり、鉢形城は前田利家・上杉景勝・島田利正・真田昌幸、
徳川家康麾下の浅野長吉、本多忠勝、鳥居元忠 らの連合軍 (35000) に包囲され、北条氏邦の老臣黒澤上野介
ら(3000) が約1か月の籠城戦を戦ったのち、開城した。その後、徳川家康の関東討入にともない、成瀬正一、日下部
定好が代官となって周辺の統治を行った。
・2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。