【岐阜城】

織田信長が居城とする以前は、「稲葉山城」と呼ばれていたともいわれているが、信長以前の斎藤氏が居城として
いた時代の同時代史料には「井口城」「金華山城」として登場する。

○建仁元年(1201年)
二階堂行政が稲葉山の上に砦を築いたのが始まり。
続いて二階堂行政の女婿の佐藤朝光、その子・伊賀光宗、その弟・稲葉光資が砦の主となり支配。二階堂行藤の死後、
廃城となる。

○15世紀の中頃
美濃の守護代であった斎藤利永がこの城を修復して、居城とする。

○大永5年(1525年)
斎藤氏の家臣であった長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こし、稲葉山城を攻撃。長井氏の支配下となる。
天文2年(1533年)長井新左衛門尉が没すると、その子、長井新九郎規秀(後の斎藤道三)が後を継ぎ、城主となる。

○永禄7年(1564年)
斎藤氏の家臣であった、竹中半兵衛重治と安藤守就が造反し、挙兵。稲葉山城を攻める。斎藤龍興らは城を捨て、竹中
らが城をしばらく占拠する。

○永禄10年(1567年)
予てから美濃攻略を狙っていた織田信長が木下藤吉郎の活躍により稲葉山城を攻略。信長は地名を岐阜と改め、城の
名前も岐阜城とした。

○天正10年(1582年)
城主であった織田信忠が本能寺の変で倒れると、家臣の斎藤利堯が岐阜城を乗っ取る。
しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると、降伏。

○天正11年(1583年)
羽柴秀吉に反発した織田信孝は、柴田勝家と呼応し、挙兵。落城する。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家も敗れる。

○天正11年(1583年)から天正19年(1591年)
羽柴氏家臣の池田元助(元助が小牧・長久手の戦いで戦死後は池田輝政)の居城となる。

○慶長5年(1600年)
城主であった織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し、石田方につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、
福島正則や池田輝政らに攻められて落城。

○慶長6年(1601年)
徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に十万石を与えて、加納城を築城させる。その際、岐阜城の天守閣、櫓など
は加納城に移されたという。岐阜城が山城である事に加えて、家康がかつて信長が天下取りの意思を込めて命名した
「岐阜」という地名を忌み嫌った(徳川氏に代わる天下人の出現を髣髴させる)からだとも言われている。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。