【府内城】

府内城は、大分市街の中心に位置する梯郭式平城である。安土桃山時代後期、府内に12万石で入封した福原
直高が府内の荷落に築城を始めたが、福原氏は改易され、[[早川長政]]の府内領再封を経て、関ヶ原の戦い
の後に3万5千石で入封した竹中重利が完成させた。

江戸時代には府内藩2万石の藩庁が置かれていたが、明治初期に本丸・東丸・西丸の建造物以外は破却され、
堀の一部が埋め立てられた。さらに[[第二次世界大戦]]時の空襲により櫓が数棟焼失した。

現在、城跡は大分城址公園となっている。本丸跡北西隅に人質櫓(二重櫓)と西丸に宗門櫓(平櫓)が現存し、
大分県の史跡に指定されている。また、3棟の二重櫓と大手門、土塀、廊下橋が復元されており、西丸跡には
1966年に大分文化会館が建てられ、三の丸跡には、大分県庁・大分市役所などがある。

=== 安土桃山時代・江戸時代 ===

* 1597年(慶長2年) - 12万石を得て臼杵より転封した、豊臣秀吉家臣の福原直高は、堅固な城郭を求めて
 大分川河口付近に築城を開始する。この地は大友氏の時代に船の荷役を行っていた場所で荷落という地名で
 あったが、縁起を担ぎ地名を「荷揚」に改め、名を荷揚城としたという。
* 1599年(慶長4年) - 4月、荷揚城完成。5月、秀吉の死後、三成派の直高は徳川家康により6万石に減封の上、
 再び臼杵に転封され、直高入封前に府内代官であった早川長政が入城する。
* 1601年(慶長6年) - 関ヶ原の戦いで西軍に付いた長政が改易となり、竹中重利が3万5千石で入城する。
            直高の時代に築城された荷揚城の大改修を開始する。
* 1602年(慶長7年) - 4層天守、櫓、山里曲輪、内堀が完成。
* 1605年(慶長10年) - 外堀が完成。
* 1607年(慶長12年) - 笠和口、堀川口、塩九升口の各門が完成し、大改修が概ね終了する。
* 1634年(寛永11年) - 重利の子・竹中重義は長崎奉行時代の不正のため、切腹。2代で改易となる。
            代わって、日根野吉明が2万石で入城する。
* 1656年(明暦2年) - 吉明が嗣子無く没し日根野氏は廃絶。臼杵藩主・稲葉信通が城代となる。
* 1658年(万治元年) -大分郡2万石を領する松平忠昭が高松陣屋より入城する。以後、明治維新まで大給松平氏
            が居城する。
* 1743年(寛保3年) - 大火により天守を含む大部分の建造物が焼失する。以後、天守は再建されなかった。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。