【福岡城】

黒田孝高・長政父子は関ヶ原の戦いの功績により豊前・中津16万石から、一躍筑前一国52.3万石の大封を得て
名島城に入城し福岡藩が成立した。名島城は立花鑑載が築き、小早川隆景が拡張したものである。
しかしながら、大藩の居城としては城・城下町ともに手狭に感じ、現在の福岡城の城地である福崎丘陵を新城
候補地に選定した。
入封早々の慶長6年(1601年)には新城建設が開始された。
孝高は築城の名手であり、また普請奉行となり縄張りを計画した野口一成は江戸城・大坂城の築城にも加わった
石積みの名人であった。
7年の歳月をかけ慶長12年(1607年)に、47の櫓を配し、面積は九州一の広さを誇る面積47万平方メートルと、
大封に相応しい城郭が完成した。築城の名手であり近隣の熊本藩主・加藤清正もこの城を賞賛した。
特に一成が指揮した石垣が素晴らしく、別名「石城」とも呼ばれる。
城と城下町は、黒田家再興の地、備前・福岡の地名を採って「福崎」より「福岡」と改められた。因みに那珂川を
挟んで東にある古来からの港湾商業都市は「博多」である。
江戸期に数度の改修が行われたが、特に幕末の嘉永・万延年間に大改修が行われた。
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、その後多くの建造物が解体もしくは移築された。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。