【江戸城】
15世紀の関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏の上杉持朝の家臣である太田道灌が、享徳の乱に際して
康正3年(1457年)に江戸城を築城した。徳川幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる。
道灌当時の江戸城については、正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や万里集九の『梅花無尽蔵』によって
ある程度までは推測できる。それによれば、「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や水堀
が巡らせて門や橋で結んでいたとされる(「子城」は本丸の漢語表現とされる)。
『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』によれば道灌は本丸に静勝軒と呼ばれる居宅を設け、背後に閣を築いたという。
『梅花無尽蔵』は江戸城の北側に菅原道真が祀られて梅林があったことが記されている。
道灌が上杉定正に殺害された後、江戸城は上杉氏の所有するところ(江戸城の乱)となり、上杉朝良が隠居城として
用いた。ついで[[大永4年(1524年)、扇谷上杉氏を破った後北条氏の北条氏綱の支配下に入る。
江戸城の南には品川湊があり、更にその南には六浦(金沢区)を経て鎌倉に至る水陸交通路があったとされている
ことから、関東内陸部から大落古利根川・元荒川・隅田川(当時は入間川の下流)を経て品川・鎌倉(更に外洋)
に向かうための交通路の掌握のために重要な役割を果たしたと考えられている。
そして、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。秀吉によって後北条氏旧領の
関八州を与えられて、駿府から転居した大納言である徳川家康が、(1590年8月30日)江戸に入った.
そこには、道灌による築城から時を経て、既に荒れ果てた江戸城があり、茅葺の家が100軒ばかり大手門の北寄りに
あった。城の東には低地があり街区の町割をしたならば10町足らず、しかも海水がさしこむ茅原であった。
西南の台地はカヤやススキの野原がどこまでも続き武蔵野につらなった。
従来、徳川家康入部前の江戸が寂れていて寒村のようであったとされてきたが、実際には荒川や入間川などの河川
交通と東京湾の湾内交通の結節点としてある程度は栄えていたとされる。
家康が入城した当初、江戸城は道灌の築城した小規模な城でありかつ築城から時を経ており荒廃が進んでいたため、
それまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築、また道三堀や平川の江戸前島中央部(外濠川)
へ移設した。それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りも行っている。
ただし、当初は豊臣政権の大名としての徳川家本拠としての改築であり、関ヶ原の戦いによる家康の政権掌握以前と
以後ではその意味合いは異なっていたと考えられている。
最後に万治3年(1660年)より神田川御茶ノ水の拡幅工事が行なわれ、一連の天下普請は終了する。
本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の
千代田区と港区・新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展
した。
その地積は本丸は10万5000余町歩、西ノ丸は8万1000町歩、吹上御苑は10万3000余町歩、内濠の周囲は40町、
外濠の周囲は73町となり、城上に20基の櫓、5重の天守を設けた。
以後、200年以上にわたり江戸城は江戸幕府の中枢として機能した。
・明暦3年(1657年) 明暦の大火により天守を含めた城構の多くを焼失。町の復興を優先し、また経済的な理由から
天守は再建されなかった。
・慶応4年(1868年)4月4日、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、10月13日に東京城(とうけいじょう)に改名
された。
・明治2年(1869年) 東京奠都。皇城と称される。
・明治6年(1873年) 皇居として使用していた西ノ丸御殿が焼失。
・明治21年(1888年) 明治宮殿の完成によって宮城(きゅうじょう)と称される。
・大正12年(1923年)9月1日 関東大震災で残っていた建造物は大きな被害を受け、和田倉門(櫓門)は復旧され
なかった。他の被害を受けた門は、上の櫓部分を解体して改修された。
・昭和20年(1945年) 空襲で大手門が焼失。
・昭和23年(1948年) 皇居と改称された。
・昭和42年(1967年)空襲で焼失した大手門が木造で復元された。
・平成18年(2006年)4月6日、日本100名城に選定された。