【中尊寺】
草創は平安時代初期にさかのぼり、嘉祥3年(850年)、円仁(慈覚大師)が関山弘台寿院を開創したのがはじまりと
いう。
その後、貞観元年(859年)清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったという。しかし、円仁開山のことは、確かな史料
や発掘調査の結果からは裏付けられず、実質的には12世紀初頭、奥州藤原氏の初代・藤原清衡が堀河天皇の勅命を
受けて伽藍を整備したのが、中尊寺の創建と見られる。
奥州藤原氏の実質的な初代である藤原清衡が平泉にて中尊寺の中興に着手したのは長治2年(1105年)、50歳の時
であった。
金色堂の建立は天治元年(1124年)、諸堂の整備が終わって、盛大な落慶供養が行われたのは着手から実に21年後
の大治元年(1126年)で、清衡は71歳であった。この落慶供養の際の願文の写本が残っているが、それによれば、
中尊寺は前九年・後三年の役の戦没者を含め、あまたの霊を浄土へ導き、奥州全体を仏国土にしたいとの願いから
建立されたものであった。
平泉では、奥州藤原氏4代(清衡、基衡、藤原秀衡、藤原泰衡)約100年にわたって王朝風の華やかな文化が栄え、
毛越寺(基衡建立)、観自在王院(基衡夫人建立)、無量光院(秀衡建立)などの寺院が建立されたが、当時の面影
をとどめるのは中尊寺金色堂と毛越寺の庭園のみである。
文治5年(1189年)、奥州藤原氏は滅亡するが、中尊寺は源頼朝の庇護を得て存続した。『吾妻鏡』に、当時の中尊寺
から頼朝に提出された「寺塔已下注文」という文書が引用されている。それによれば、当時の中尊寺には金色堂のほか
に、釈迦如来・多宝如来を安置した「多宝寺」、釈迦如来百体を安置した「釈迦堂」、両界曼荼羅の諸仏の木像を安置
した「両界堂」、高さ三丈の阿弥陀仏と丈六の九体阿弥陀仏を安置した「二階大堂」(大長寿院)などがあったという。
中尊寺には、建武4年(1337年)に大きな火災があり、金色堂を残してほぼ全焼してしまった。
近世の中尊寺は衰退し、『奥の細道』の旅をしていた松尾芭蕉が中尊寺の荒廃ぶりを見て嘆いたのはよく知られる。
近世を通じ、伊達氏の庇護を受けて堂宇の補修・建立が行われ、寛文5年(1665年)には東叡山・寛永寺の末寺に組み
込まれている。
1909年(明治42年)に本堂が再建。1950年に金色堂須弥壇に800年もの間、安置されていた藤原四代の遺体が調査
される。
1958年には天台宗東北大本山の称号を許され天台宗総本山・延暦寺より不滅の法灯を分火護持される。
1962年より金色堂の解体修理が行われ、6年後の1968年に創建当時の輝きを戻すことになる。