【備中松山城】

城のあった臥牛山(松山)は4つの峰からなり、小松山に本丸・二の丸・三の丸が階段状に配され、大松山、天神
の丸、前山にも遺構がある。海抜約430mの臥牛山小松山山頂の本丸へは、麓の御根小屋から約1,500m、1時間
ほどの道のりの山道を経て至る。
江戸期の備中松山藩時代は山城で不便なため、山麓に御根小屋という御殿を構え、そこで藩主の起居・藩の政務
を行った。

現在は城跡が国の史跡に指定され、江戸時代に建造された天守、二重櫓、土塀の一部が国の重要文化財に指定
されている。
そのほかに石垣、復元された櫓、門、土塀が現存する。日本三大山城の一つとされる。御根小屋の跡地には岡山
県立高梁高等学校がある。


鎌倉時代 - 安土桃山時代
仁治元年(1240年)、秋庭三郎重信が備中有漢郷(現・岡山県高梁市有漢町)の地頭となり大松山に最初の城を
築いた。元弘年間(1331年頃)、高橋宗康が小松山まで城を拡張した。

城主は時代と共に上野氏、庄氏、三村氏と変遷する。戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする
一大城塞となった(現在も石垣の一部が残る)。

元亀元年(1570年)には元親が備中に兵を進めた宇喜多直家を迎え撃つ為に出撃した際に、直家と通じた庄高資・
庄勝資親子に松山城を占拠されるという事態が起こったが、翌元亀2年(1571年)2月に穂井田元清の協力の元で
庄高資を討ち、松山城を奪還した。天正2年(1574年)、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返った。
翌年にかけて、三村氏と毛利氏の争いが続く(備中兵乱)。城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害
した。備中兵乱の後、毛利氏の領有となった。

【江戸時代
近世を通じ、城主は池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と入れ替わり、最後の城主は板倉氏であった。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍につき敗れた後、徳川幕府が城番(小堀正次・政一)を置いた。
この頃、麓に御根小屋が築かれた。

元和3年(1617年)、池田長幸が入城し、6万3000石で立藩するが、寛永18年(1641年)、2代長常が嗣子なく
没したため同家は廃絶。備後福山藩主の水野勝成家臣が城番となった。翌寛永19年(1642年)、水谷勝隆が5万石
で入封。
2代勝宗は天和元年(1681年) - 天和3年(1683年)にかけて天守建造など3年にわたる大修築を行い、城は現在
の姿となった。しかし、3代勝美は嗣子なく元禄6年(1693年)10月に死去。
その養子となった勝晴はわずか1か月後の同年11月に13歳で早世し、水谷家は断絶した。

水谷家断絶後は赤穂藩主・浅野長矩が城の受取りにあたり、家老・大石良雄が城番となった。元禄8年(1695年)、
安藤重博が6万5000石で入封するが、正徳元年(1711年)に転封。同年、石川総慶が6万石で入封した。
延享元年(1744年)、石川氏が転封になると、板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続いた。

慶応4年1月18日(1868年2月11日)、戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は執政であった陽明学者・山田方谷の決断
で無血開城した。


平成18年(2006年)4月6日、日本100名城に選定された。