【荒砥城】
この地の豪族で村上氏の一族の山田氏の居城であった。村上氏の本城、葛尾城の支城としての役割を果たしていた。
天文22年(1553年)には武田信玄により葛尾城が落城すると、武田氏に従った屋代政国の替え地として、荒砥城
を与えられ屋代城から移った。 天正10年(1582年)、武田氏が滅亡した後は、屋代秀正が上杉氏に従い海津城の
副将として遇された。しかし主将の山浦景国(村上義清の息子)とはしっくり行かなかったようである。
村上氏一族の中で最初に武田方に寝返った屋代氏は信頼されず、上杉景勝は稲荷山城を築いて監視していた。
天正12年(1584年)4月1日、秀正は徳川氏に通じたため上杉景勝に攻められ、荒砥城に火を放ち、徳川の下へ
出奔して旗本となる。荒砥城は以降、廃城となった。しかし屋代氏出奔後の領地の一部は景勝の人質となっていた
真田信繁(幸村)の領地として与えられたとされている。