【明石城】

JR明石駅北側に位置し、駅ホームより間近に望める。縄張りは連郭梯郭混合式の平山城である。丘陵舌端に築かれ、
本丸付近は柿本人麻呂を祀った人丸塚があったと言われており、この地は嘉吉の乱で激戦地となった。
明石の地は、山陽道が通り、北には丹波国、但馬国への道が分かれ、淡路島、四国のルートがあり、古来より交通
の要衝であった。徳川幕府が西国の外様大名の抑えの城として、姫路城についで着目した。
現在中堀の内側は兵庫県立明石公園として整備され、日本さくら名所100選に指定されている。
櫓や石垣は1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災で被害を受けたが全面修復された。

<沿革>
1617年(元和3年)信濃松本藩主より明石藩主となった小笠原忠真は、明石城の西方、明石川河口西岸にあった
船上城に入城した。譜代大名たる小笠原氏10万石の居城として城郭を建設するよう、同年に第2代・将軍徳川秀忠
より築城命令された。
当初検討された地は三ヵ所、塩屋町(現在の神戸市垂水区塩屋町周辺)、かにが坂(現在の明石市和坂周辺)と
人丸山(赤松山)が検討されたが、人丸山には大きな池があり城の防備に役立つとして人丸山に定まった。
徳川秀忠は旗本の都築為正、村上吉正、普請奉行として建部政長らを派遣し、築城費として銀一千貫を支給した。
人丸山の地の利を利用し、三木城、高砂城、枝吉城、船上城の木材を使用し着工され、坤櫓は伏見城、巽櫓は
船上城の遺材が使用されたと伝えられている。元和5年(1619年)正月から作事が始まり、元和6年(1620年)
正月には小笠原忠真が船上城から移り住み、同年6月から城内の建物関係の工事が開始された。このとき天守は台石
まで積まれたが、建てられなかった。築城と並行して城下町の町割りも実施され、当時小笠原忠真の客分だった
宮本武蔵が指導したと『赤石市中記』『播磨鑑』『播州明石記録』『小笠原忠真一代覚書』など各史書に記録されて
いる。

歴代城主>
苦心して明石城を築城した小笠原忠真は、1632年(寛永9年)豊前小倉藩(小倉城)に転封となった。
翌1633年(寛永10年)信濃松本藩より 松平庸直(戸田氏)が7万石で入城したが、急死したため松平光重が城主と
なった。しかしその松平光重も1639年(寛永16年) が美濃加納藩(加納城)に転封となると、大久保忠職が7万石で
入城したが、1649年(慶安2年)のわずか10年間で肥前唐津藩(唐津城)に転封する。
その後、丹波篠山藩より松平忠国が7万石で入城、その子・松平信之と共に名君として知られ、林崎掘割の用水路や
一里塚の設置、海岸の防風林の造成、そして多くの新田の開発に努めた。文化人でもあったらしく城内十景を
選んでこの時に「喜春城」の名を付けた。しかしその松平信之も、1679年(延宝7年)大和郡山藩に転封となると、
代わりに郡山城 にいた本多政利が6万石で入城する。しかし、領内を収める事ができず1682年(天和2年) 僅か
3年後、苛政を責められ陸奥岩瀬藩に1万石に減知転封となり、その後改易になった。僅か50年の間に城主が目まぐる
しく入れ替わったが、本多氏転封の後、越前家の松平直明が6万石で入城し、以後明治維新まで10代、189年間親藩
として松平氏の居城となった。各城の遺材を集めて築城したせいか、老朽化が早く第2代藩主松平直常の1739年
(元文4年)には大修築が行われた。最後の明石城主は松平直致で、1874年(明治7年) 廃城令により廃城となる。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城に選定された。